如:森列(形容數量眾多,如森林排列);森羅(形容數量眾多,如森林排列);森羅寶殿(迷信傳説中間閻羅王處理公務殿堂);森仗(眾多儀衞)秭歸正面有一大片鐵青色礁石,森然聳立江面。
——《長江三峽》(6) , [gloomy](7) 森嚴, [forbidding]如:森逼(森嚴逼人);森衞(警衞森);森肅(森嚴,);森凜(森嚴可畏)樹木樣子。
《説文解字·木部》:「森,木多貌。
」《文選·左思·蜀都賦》:「皛貙氓於葽草,彈言鳥於森木。
」灰暗樣子。
如:「陰森」。
唐·顧況〈遊子吟〉:「泬寥羣動異,眇默諸境森。
」、不可侵犯。
如:「法度森嚴」。
に林より規模がきく,よりい木が多いものをいう。
」眾多。
如:「森列」、「森羅萬象」。
《文選·潘岳·藉田賦》:「森奉璋階列,望皇軒而肅震。
」如:森列(形容數量眾多,如森林排列);森羅(形容數量眾多,如森林排列);森羅寶殿(迷信傳説中間閻羅王處理公務殿堂);森仗(眾多儀衞)秭歸正面有一大片鐵青色礁石,森然聳立江面。
——《長江三峽》(6) , [gloomy](7) 森嚴, [forbidding]如:森逼(森嚴逼人);森衞(警衞森);森肅(森嚴,);森凜(森嚴可畏)樹木樣子。
《説文解字·木部》:「森,木多貌。
」《文選·左思·蜀都賦》:「皛貙氓於葽草,彈言鳥於森木。
」灰暗樣子。
如:「陰森」。
唐·顧況〈遊子吟〉:「泬寥羣動異,眇默諸境森。
」、不可侵犯。
如:「法度森嚴」。
唐·李白〈出自薊北門行〉:「虎竹救急,戎車森。
」眾多。
如:「森列」、「森羅萬象」。
《文選·潘岳·藉田賦》:「森奉璋階列,望皇軒而肅震。
」樹木の生いった所。
杜とも書かれる。
に林より規模がきく,よりい木が多いものをいう。
日本人が森という場合は,例えば〈鎮守の森〉のように,木がく內部がうっそうとっていて,一種の神秘性を感じさせるようなものを中心に表現している。
かつては〈森〉よりも〈山〉〈林〉の語が多用され,近世各藩の管理する森林は〈御林(おはやし)〉〈御山(おやま)〉であり,村民が利用する森林は〈村持山(むらもちやま)〉〈郷林(ごうばやし)〉であった。
また水源涵養(かんよう)林は〈水林(みずばやし)〉とか〈田山(たやま)〉と呼ばれ,海岸の防風・防砂林は〈風除林(かぜよけばやし)〉とか〈砂留山(すなどめやま)〉と呼ばれていた。
明治期後に外國語の訳語としてWald(ドイツ語),woodに〈森〉をあてたのが見られるようになった。
しかし,植物學や林學では〈森林〉と呼ばれることが多いし,森林を類型化した場合の呼名にはつねに〈林〉が使われる。
→森林執筆者:巖槻 邦男+筒井 迪夫列車や車でヨーロッパを旅行すると,都市近郊にに森林が多いこと,それもいかにも整然と,樹木がまっすぐに伸びている感じの森林が多いことが目につく。
〈もり〉ということばに,普通,小規模な〈社の杜〉や簡単には寄れぬ山林を思い浮かべる日本人は,ヨーロッパでは森がより身近な,環境文化のな一要素をなしているとの思いをいだくであろう。
もっとも,國土に佔める森林面積の比率でいえば,〈森と湖の國〉フィンランド(69.2%)以外,ヨーロッパ各國はおしなべて日本(67.3%)よりその比率がいのである。
條件がなアイスランド(1.2%)は別としても,イギリスやオランダはともに8.3%にすぎず,スウェーデンの58.9%以外はおおむね20%台ないし30%台(イタリア20.9%,フランス26.9%,スペイン29.6%,スイス26.0%,舊西ドイツ29.0%,舊東ドイツ29.3%,ポーランド29.5%,オーストリア39.0%など)である。
針葉樹と広葉樹の比率は,高度と緯度がまるにつれ前者が増えるのが普通であるが,ヨーロッパ全體としては大體3対2と推定され,舊ソ連邦(3対1)や北アメリカ(2対1)ほどではないにしても,らかに日本の場合よりい。
マツの類ですら蟠竜(はんりよう)というより帆柱のようにすっくと立つヨーロッパではあるが,針葉樹の優位と面積のわりに豊な森林という印象とは,単に緯度のさやアルプス山脈による植物相の違いといった地理要因だけではなく,長い開墾の歴史と植林事業という社會要因をぬきにして考えることはできない。
というのは,P.C.タキトゥスが〈森林に覆われうす気味の悪い〉と伝える中部ヨーロッパは,民族移動の時代以來,森林面積が1/3に減ったと推定されるからであり,しかも開墾のおもな対象となったのは,山地および高緯度の針葉樹林ではなく,な平地の広葉樹林帯だったからである。
例えば東ヨーロッパに現在殘されているオークとブナ類(シデなど)の混交林は,かつては北ドイツ,デンマーク,ベルギー,イギリスといった,今日森林にしい地域にまで広がっていたのだが,今ではすっかり姿を消し,ヨーロッパアカマツがかろうじてその代役を務めている。
カバノキ,トネリコ,ポプラ,ときにはオークとすら混交林をなすほど適応性の強いヨーロッパアカマツは,かつてのヨーロッパの代表樹木ヨーロッパブナにかわって,今日ヨーロッパでも広範囲に見られる樹種である。
オークあるいはヨーロッパナラ(夏ナラ)の森もまためったに見られぬものとなった。
中世においてそれはすこぶるされたのである。
一つには秋その森にブタを放ち,どんぐりを存分に食わせらせるためであったし,一つにはそのな材質を建築用材として役だてるためであった。
しかし飼料穀物やジャガイモの栽培によって養豚上の意義が減ずるとともに,造船用材など需要が急激にまった結果,長い生長期間をとし植林の難しいオークの森は採の犠牲となったのである。
これに対して南ロシアでは,ステップは別としてマツとオークが多く見られて森林面積の割合は20%程度であり,またモスクワを中心とする中部ロシアではマツ,オークのほかにシラカバ,ブナ,ボダイジュなど針葉樹と広葉樹の混合樹林が全面積の30%ほどを覆っている。
延伸閱讀…
それに対して〈黒い森〉とは針葉樹の森をさしていたが,今日〈シュワルツワルトSchwarzwald(黒い森)〉といえば,ドナウ川の源流をなす,南西ドイツの山林地帯の名稱となっている。
その代表樹種が針葉樹のモミとドイツトウヒであり,しかも北ヨーロッパの國々のドイツトウヒの森が緯度と日照の関係から〈針のように〉細長く生長するのに対し,うっそうとり巨木をなすからだともいう。
に赤モミとも呼ばれるトウヒこそ,林學が盛んなドイツにおいて過去200年間にも多く植林されてきた樹種で,現在,舊西ドイツの森林面積の40%以上を佔めている。
寒気や酸性土壌にく,植林もで,木材としても評価がいからだが,欠點は高木のわりにが淺いため風害にいことである。
森の巨人が嵐とともに荒れ狂いモミやドイツトウヒの大木をこそぎに倒す,という言い伝えがシュワルツワルト地方に昔からあったが,同一種の植林によって樹のそろった一斉林では,風による根返り(倒木現象)の被害が混交林よりもはるかにきいことが近年も実証されたために,ブナなどの混交林の育成も含めさまざまな植林方式が模索され実験されている。
しかし風害以上に今日焦眉の問題となっているのは,工業化社會のもたらした酸性雨その他さまざまな原因による森林の被害,とくに針葉樹の枯死現象であろう。
〈もり〉は古代にあっては異教祭祀の場あるいは神域であった痕跡がヨーロッパ各地に殘されている。
中世にあっても森はなお気味なもの,ろしい所であり,町と町,集落と集落を隔てる障害であり,無數のさな世界の境界であった。
〈四つの森の彼方へ〉とはその世界からの追放を意味したのである。
しかし,ガラス製造など木材を大量に消費する産業が発展する近世にると,森林はに神秘性を失い,人間はこれを侵すことを毫(ごう)もれなくなった。
その結果もたらされたものが,18世紀末におけるヨーロッパの森の危機狀況である。
林學という學問はそれを契機に興り,ロマン派に代表される森林賛美もまたそれを契機にまっている。
立入りのな,市民の憩いの場であるヨーロッパの森林に迫りつつある現代の危機がいかに迴避されうるか,今後の課題であるといえよう。
執筆者:新井 皓士ロシアは森の國であり,森はくからロシア人の生活の中でな役割を演じてきた。
東スラブ人の最初の國家はキエフ・ロシアと呼ばれ,現在のウクライナ地方を中心に形成されたが,ステップの遊牧民の圧迫を受けて,12~13世紀からロシア人の政治は,キエフの北東にあたる森に覆われたボルガ川上流に移行した。
モスクワを含むこの地方は當時から〈森の中の地〉zales’eと呼ばれていた。
16~17世紀にロシアを訪れた西ヨーロッパの旅行家たちは,國境からモスクワまでまばらな集落と焼畑の耕地をのぞいて森がとぎれずに続いていたと記録している。
その後さまざまな理由から森の伐採が進んだが,それでも現在なお北部ロシアの諸州ではモミ,マツ,カラマツなどの針葉樹林が全面積の40%から60%を佔めている。
これに対して南ロシアでは,ステップは別としてマツとオークが多く見られて森林面積の割合は20%程度であり,またモスクワを中心とする中部ロシアではマツ,オークのほかにシラカバ,ブナ,ボダイジュなど針葉樹と広葉樹の混合樹林が全面積の30%ほどを覆っている。
延伸閱讀…
古來ロシア人の意識では森は神の贈物であり,くは所有権が問題にされることはなかった。
唯一の例外は野生のミツバチからのみつの採取で,それはモスクワ諸公のな財源をなしたので,ミツバチに害を及ぼすような樹木の伐採は固く禁止されていた。
また14世紀以降南方からの遊牧民の襲來を防ぐため逆木(さかもぎ)を連ねた數百kmに達する防衞線が構築されたことに関して,この防衞線上に位置する森は,砲兵庁の管轄下におかれて手く保護された。
ピョートル1世の近代化政策がまった18世紀の初頭には,艦船の建造が國家な緊急事とされ,造船の木材を確保するため,大河の両岸から50km以內,中級河川から20km以內の森は海軍省の所轄とされ,これらの森でのオーク,マツなどの大木をみだりに伐採することは厳禁された。
また森の火事については10km以內の住民が消火に駆けつけることが義務づけられた。
森林行政が國有財産省に移管されるのは1837年のことである。
革命前のロシアでは森の70%が國有林であった。
なくとも18世紀の後半にるまで,ロシア人の生活の大部分が森林地帯で営まれたところから,森はロシア人の民族性格に甚な影響を及ぼしたと考えられている。
例えば19世紀の歴史家のS.M.ソロビヨフによれば,ヨーロッパは二つの部分,すなわち西方の石の部分と東方の木の部分からなっている。
ロシアの貴族が石の城を構えて領主として割拠することなく,な君主のまわりで従士団を形成するにとどまったことも,また民眾が石の壁をもつ都市をつくらず,しばしば移動して安価な材料で手軽に住居を建て四方に分散する傾向をもったことも,ソロビヨフはロシアの條件から説している。
それは極端に過ぎるとしても,國家形成の初期に森がロシア人を外敵の脅威から守り,彼らに衣食住の材料を與え,その富の源泉となったことは疑いがない。
古代ロシア人は森やの樹木を神聖視し,崇拝の対象とした。
キリスト教が普及したのちも,ある種の樹木(おもにシラカバ,ヤマナラシ,オーク)には霊力がやどると考えられて各種の儀式が行われたし,森の精レーシーの信仰は民眾の間にながく殘った。
開かれた畑や草原がいわばるい表の世界とすれば,い森はある意味では裏の世界でもあり,ここへは表の世界から逃亡農奴や脱走兵や宗教上の異端派などが隠れ家をもとめて逃げこんだ。
ラージンの亂の指導者ステパン・ラージンは,配下の者たちに教會で婚禮を行うことを禁じ,ヤナギの木のまわりで式を挙げるように命令した。
親の認めない結婚をするときには男が女を奪って森に逃げこみ,まる1晝夜を森で過ごすと追及がやみ,男女がはれて夫婦になれるという風習もあった。
近代から現代にかけて,ロシア文學ではツルゲーネフの《猟人日記》,レオーノフの《ロシアの森》,パウストフスキーの《森林物語》などのような森林文學とも稱すべき作品が次々と発表されたこと,また森を描いたシーシキンやクインジなどの數多くの絵畫,ショスタコービチのオラトリオ《森の歌》などが人気を博していることの中に,ロシア人の森に寄せるの感情をうかがうことができる。
執筆者:中村 喜和〈森〉という字は《釈名(しやくみよう)》によれば,山中の樹木が羣がり立つさまをいう。
《周禮(しゆらい)》には,山林をつかさどる役人として山虞(さんぐ)と林衡(りんこう)を挙げ,季節による材木の切出しや山林での祭祀,狩猟に関した。
山林は元來,君主と民のの利用に供せられたが,戦國時代になると,君主による家産化がまった。
山林を囲いこんでその生産物を掌握するとともに,開墾して公田とすることがめられたのである。
そのため,とりわけ華北においては,景観に急激な変化が生じたことと思われる。
例えば,泰山の祭りに先立って山麓の配林で祭りを行うのが決まりであったが,その祭りに參加した後漢の応劭(おうしよう)は,いくらも樹木は生えていないと述べている。
森に関する伝説が中國にしいのもこのことと無関係ではないはずであって,桑林における男女のあいびきは,禹王と塗山(とざん)氏の女の話をはじめとして多くの伝説と歌謡を生んだが,ヨーロッパの森の伝説と異なり,るいイメージが強い。
執筆者:吉川 忠夫北海道南西部,渡島(おしま)半島の太平洋側に位置する渡島支庁茅部郡の町。
2005年4月砂原(さわら)町と舊森町が合體して成立した。
人口1萬7859(2010)。